ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今、ここを訪れ、何か気づきたいと感じるのなら、
そして、それは今なのではないか、と感じるのなら、
あなたのいのちの源から流れるものへと耳をすませ、
対話がしたいといういのちの響きとの共鳴をまさに感じている
その時なのかもしれません。
蝶の幼虫が蛹を経て蝶になるとき、
蛹の中では、まるで別のいのちに生まれ変わるかのような
一見、恐ろしくも見える劇的な変化が起こります。
でも、蝶は決して蛹になるプロセスを拒否して蝶になろうとはしません。
いのちのあたりまえの営みとして受け入れています。
でも私たちは蝶ではなく、人間として生まれてきました。
あまりに怖すぎて、わかっていても、蛹へと向かうことや
蛹のプロセスから逃げたくなることもあるでしょう。
でも、私たち人間が、蝶たちのように1匹で卵から蝶にならないのは、
人間は、響き合う共鳴しあうことで蝶に向かって蛹のプロセスも
進んでいくことができる、
そう約束して生まれてきているからだと思うのです。
私は天職というのは、生まれた時、あるいはそれ以前から
あなたが携えている響きそのものではないかと思うのです。
案外素朴なものではないかと思ったりもします(私の場合ですが(笑))
実をつける木々は、どれだけ実を鳥や動物たち、あるいは私たち人間に
与えても枯れることがありません。
先人たちの言葉を借りれば、
天職に生きるというのは、なにかさも崇高な目標に向かって
登っていく営みではなく、すでにずっとあなたの内にあって
どれだけ与えても失われない、喜びしかない営みの中にあるのでしょう。
職業のようなラベルは、自分もあるとどこか安心するし、人から見聞きしても
わかりやすいので便利ですが、すべての人の天職にそういったラベルをつけるのが
適当なのかどうかはわかりません(笑)
私は言葉や書くことが好きだけれど、それでもそう感じるのです。
たとえば、このダイアローグは天職か?と聴かれたら、
その営みの一部のように「感じるもの」です。
行為というよりは、安心できる「場」から生まれる導きにゆだねる、
そのひとつがダイアローグではないかと思います。
今、届けたいと「感じる」私が「ある」という導きの中にあり、
これからどのように変容していくかはわかりません。
行為という視点でみたら、
人生の終わりまでずっと「している最中」なのかなと思います(笑)
私自身が、導き手の「大丈夫」という言葉や、安心できる場があったことで、
蛹の時間を安心して進むことができました。